持ちすぎていた私が、お寺で少しずつ軽くなった話
「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」——気づいたら、頭の中がいつも何かで埋まっていませんか?50代になって、仕事も家族のことも、自分なりに頑張ってきた。それなのに、なぜか心がじわじわ重たくなる。そんな感覚を持ちながら、私は数年前から西国三十三所の巡礼を少しずつ続けています。お寺に行って何かが劇的に変わるわけではないのですが、気がつけば「持ちすぎていたもの」を少しずつ下ろせるようになっていました。今日は、巡礼の中で気づいた「手放し」の習慣について、お話しさせてください。
西国三十三所を巡り始めたきっかけ
最初のきっかけは、43歳で看護師の資格を取って就職した頃からです。仕事にも慣れて少し余裕が出始めた頃から寺社巡りを始めました。最初に行ったお寺で御朱印帳を見てそれから、いろんな御朱印が見たくて始めたのがきっかけだったと思います。仕事で疲れているけど、仕事だけで楽しみがない、何か趣味でも持たなきゃ。そんな思いもありました。「このままでいいのか」「次に何をすればいいのか」——そういう問いがずっと頭の中を回り続けていた時期でもあります。
そんなとき、ふと思い出したのが、母が大切にしていた御朱印帳でした。「あんた、どこかお寺でも行ってみたら?」とよく言っていた母の言葉。試しに近くの西国第五番葛井寺(ふじいでら)へ足を運んだのが始まりです。特別な信仰心があったわけではなく、「とりあえず行ってみよう」という気持ちだけでした。
お寺でしか体験できない「静けさ」の力
お寺に着いて驚くのは、あの独特の静けさです。観光客が多い有名寺院でも、本堂の中に入ると、ざわめきがすっと引く瞬間があります。私はその「静けさが始まる瞬間」が好きで、いつも少しだけ目を閉じてそれを味わうようにしています。
目を閉じて、「家族みんなが健康でありますように。」
お寺の静けさの中にいると、「ここにいるだけでいい」という許可が、どこかから降りてくるような気がするんです。あの感覚は、私にとって特別なリセット時間になっています。
巡礼で気づいた「手放し」の3つのサイン
何度かお参りを重ねるうちに、「手放し」にはサインがあることに気づきました。私の場合、次の三つが揃うと、何か重たいものが少し降りる感覚があります。
ひとつ目は「深呼吸ができる」こと。普段はそんなに意識しないのに、境内に入ると自然にゆっくり息が吸える。体が「ここは安全だ」と判断しているのかもしれません。仕事中は特に呼吸が浅い感じがあります。ゆっくり息を吸ってー吐いてーなんてする暇もない。
ふたつ目は「一つのことしか考えられなくなる」こと。石段の段差を数えながら上る、手水で手を清める、蝋燭に火をともす——そういった一連の動作に集中していると、頭の中のごちゃごちゃがいつのまにか消えています。これが「今ここにいる」感覚、いわゆるマインドフルネスに近いものだと、後から気づきました。
いろんなお寺を参拝するうちに、般若心経を唱えられるようになりました。唱えているとむ無心になれます。写経もおすすめです。集中できます。
みっつ目は「帰り道が軽い」こと。来た道を同じように歩いているのに、帰りは荷物が減ったような感じがする。これは毎回ではないのですが、そう感じる日は決まって、何かを「ちゃんと手放せた日」だと思っています。
普段の生活に取り入れる「小さな手放し」の習慣
もちろん、毎週お寺に行けるわけではありません。地域医療連携室で働き始めた2026年4月からは、むしろ平日は忙しくなりました。だからこそ、日常の中に「小さな手放し」を組み込むことを意識するようになりました。
朝、コーヒーをいれながら「今日手放すことをひとつ決める」。たとえば「今日は完璧な夕食を作ることを手放す」「今日は誰かの期待に100%応えることを手放す」——そう心の中で宣言するだけでいいんです。声に出さなくても、決めるだけで少し楽になります。
もうひとつは、寝る前に「今日お疲れさまでした」と自分に言うこと。看護師時代は患者さんを褒めたり励ましたりするのが上手でも、自分に対してはものすごく厳しかった。意識して自分を労うようにしてから、夜の寝つきが変わりました。これも一種の「手放し」だと思っています。
「持ちすぎる」ことに気づくのも、50代だからこそ
なぜ今まで手放せなかったかというと、単純に「持っていることに気づいていなかった」からだと思います。仕事・家族・自分の体調・老親のこと・お金のこと——全部を同時に抱えてきた50代は、手放す暇もなかった。
でも、病棟を辞めて少し立ち止まり、万博アテンダントで「自分が楽しいこと」に触れ、地域医療連携室という新しい職場で「ゆるやかなペース」を経験してみて初めて、「あ、私って相当いろんなものを持ちすぎていたんだ」と気づけました。手放せるようになったのは、手放す余白ができたからだと思います。
50代は体力も落ちるし、思うように動けなくなることも増えます。でもそれは同時に、「持ちすぎていたものを選別するチャンス」でもある。そう思えるようになると、年齢を重ねることが少しだけ怖くなくなりました。
お寺は「答えをくれる場所」ではなく「問いを手放す場所」
西国三十三所を巡り続けて気づいたのは、お寺は「悩みの答えをくれる場所」ではないということです。どのお寺にも、神様や仏様が「こうしなさい」と教えてくれるわけではない。でも、境内にいる間だけは、答えを探すのをやめてもいい気になれる。それが、私にとっての「手放し」の場所です。
お寺や神社を参拝していると、とっても居心地の良いお寺や神社が見つかります。庭が綺麗に手入れされているお寺や、大きな御神木がある神社、人によって感じ方は違うと思いますが、心地よく感じられるお寺や神社に行くと、スッキリとした気分が味わえると思います。
もし今、心が重たくてしかたないなら、近くのお寺に行って、ただ座ってみてください。何も考えなくていい、何も解決しなくていい。「ここにいていい」という感覚が、少しずつ心を軽くしてくれます。私はそう信じています。今日もぼちぼち、ご自身のペースで。
次回予告
次回は「看護師の経験は定年後も使える?私が感じた"資格のある人生"の底力」をお届けする予定です。57歳で病棟を辞め、万博アテンダント、そして地域医療連携室へ——いくつかの節目を経て気づいた、看護師資格という「一生もの」の価値について、正直にお話しします。またここでお会いしましょう。